日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【柏木源藤】
東軍に寝返る武将、続々
そして、三成はまだ動かない軍勢がいることに気付きました。それが島津隊でした。
島津義弘は家臣たちに、こう命令を下していたといいます。
義弘「敗れた西軍の兵が、敗走して自陣に駆け寄ってきたら、たとえ味方といえども打ち捨てよ」
この戦術を取った理由はハッキリと分かりませんが「元々、東軍に味方するつもりだったため戦意がなかった」や「三成が島津義弘を軽視してそれを恨んでいたため」や「決戦の戦機は自分たちで判断するつもりだったため」などと言われています。
また、『山田晏斎覚書(やまだ・あんさい・おぼえがき)』によると、三成は島津隊の参戦を促すために家臣の八十島助左衛門(やそじま・すけざえもん)を使者として送ったのですが、馬上から口上してしまったために、
「不届き者である! 討ち取れ!」
と島津の兵士に罵声を浴びせられたといいます。ひょっとすると源藤も、その中の一人だったかもしれません。
『惟新公関原御合戦戦記』によると、その後、三成自身が「西軍の形勢が芳しくない」と一刻も早い出馬を嘆願しに島津陣営に赴いたのですが、島津豊久(しまづ・とよひさ=義弘の甥)は「おのおの力を尽くそう」と三成に返すと、
三成「そうか、好きにせよ」
と答えて陣に戻ったといいます。
戦況は一進一退のまま午(うま)の刻(正午頃)を迎えた時、家康は小早川秀秋の陣に、出陣の催促として大砲を撃ち込んだといいます。
それを機に小早川秀秋は東軍に寝返る覚悟をして松尾山を下ると、山麓に陣を張っていた4人の武将(脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠)も時を同じくして東軍に寝返りました。この裏切りによって、西軍の有力な武将だった大谷吉継(よしつぐ)は切腹に追い込まれ、西軍は総崩れとなっていったと言われています。
敵中突破! 島津隊の突撃
東軍の勝利が確定となって勝鬨が上がる中、島津軍はまだ動きを見せずに沈黙を守っていました。
はじめ島津義弘は討ち死にをすると決心したそうですが、家臣たちの説得もあり撤退することを決定しました。
義弘「敵は何方(いずかた)が猛勢か」
家臣「東よりの敵が以(も)っての外(ほか)の猛勢でござる」
義弘「では、その猛勢の中へ掛かり入れよ」
家臣「前方に見えるのは、みな敵ばかりです」
義弘「敵ならば斬り通るのみ。斬り通ることができぬなら、兵庫入道(ひょうごにゅうどう=島津義弘)は切腹するだけよ」
家臣「いずれも承りました」
こうして、前代未聞の敵中突破退却戦「島津の退(の)き口(ぐち)」が始まったのです。
本陣には義弘の影武者として、島津家重臣の長寿院盛淳が義弘の甲冑や陣羽織などを拝領して、わずかな軍勢の中に残りました(この後、盛淳は義弘の身代わりとなって討ち死に)。
そして、義弘は残りの軍勢を率いて一団となり、敵中を貫き始めました。源藤は得意の火縄銃を腰に差し、これに付き従いました。
まず、正面にいた福島正則の軍勢に突撃を掛けてこれを破ったのですが、突撃の前後に島津隊は船歌を歌っていたといいます。理由は定かではありませんが、討ち死にするという恐怖心を和らげるためだったのかもしれません。
ちなみに、島津義弘は船歌を歌い出した家臣たちを見て「御ふくりう(腹立)」、つまり御立腹になったそうです。義弘自身はあまり余裕がなかったのかもしれません。
さて、この島津隊の突撃は凄すさまじく、さらに東に突き進みます。この時、島津隊は「捨て奸(がまり)」という戦術を使ったといいます。これは迫ってくる敵に対して、足止めをするために小部隊をその場に留まらせて迎撃。これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げさせるという戦法でした。
島津軍の場合の迎撃方法は、主に火縄銃を使用したもので、胡座(あぐら)をかいて銃撃したといいます。
この捨て身の戦法で、多くの被害を受けながらも、島津隊は追撃する敵に大打撃を与えていったのです。